lao_20th
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挿図22 禅定印坐像ルアンパバーン王宮博物館89ず、当時のカンボジアが置かれた国際的状況からもこの記述の史実性を疑問視せざるを得ない。タイ史料では頻繁に起こったカンボジアとの戦争や反対にルアンパバーンとの緊密な関係が明らかになった。またパバーン仏の形式を検討し、ウートーン第1様式との共通点が多いことからタイの仏像との関係性が推測された。以上ラオス年代記の仏教伝来とパバーン仏請来の伝承はラオス仏教の正当性やパバーン仏への信仰を集めるために後代に作られた伝承であり、実際はロブリー等のタイ中部あるいは東北部で造られたものだと考えられる。制作年代は13世紀後半から14世紀前半としておきたい。 第3節ではヴィエンチャンとルアンパバーンに現存する40体を超えるクメール様式とみられる仏像を検討した。ヴィエンチャンではバイヨン期に属すると考えられる像として、ワット・タートルアンの半跏趺坐像、ホープラケーオの薬師如来像が挙げられる。多くはバイヨン期後の13世紀後半以降と考えられることから、バイヨン期以降もクメール権力がある時期まで維持されており、造像も行われていたと考えられる。この期の像にはタイ東北部のドヴァーラヴァティー様式と共通した特徴を有する像も多く、両者間の仏教交流が想定される。中にはメコン川を超えてタイ東北部やタイ中部から持ち込まれた像もあったと考えられる。 ルアンパバーンの寺院や王宮博物館に伝世するクメール様式の特徴を有する仏像も13世紀末から14世紀前半と考えられる像がほとんどだった。クメール建築遺構が発見されていないこと、地方的特徴を併せ持つ像が多いことからヴィエンチャンあるいはタイ東北部からもたらされた可能性が大きい。その時期は特定できないが、発掘で見つかったものもあることから、必ずしも近年持ち込まれたものではないだろう。フランス極東学院の報告にもこの件について言及がない。また14世紀後半以降に造られたとみられるナーガ仏も散見され、ナーガ仏の形式が数少ないながら用いられていたことがわかる。 アンコールワット期のヒンドゥー神像やナーガ仏の作例に由来する特徴として採用されている点は、宝冠像で前髪飾りをはじめとした首飾り・臂釧・腕釧・通肩・直視する眼であり、バイヨン期の作例に由来する特徴としては、前髪飾りのない頭部・伏し目・バイヨンスマイルと呼ばれる微笑・偏袒右肩が挙げられる。バイヨン期以降インドラヴァルマン2世時代までの13世紀前半には、上記の特徴が混在する像が造られているのはバンテアイクデイ出土の廃仏から明らかだが、どの部分にどの形式を採用するかは像によってまちまちである。またこのように異なった時期の特徴が一つの像において混在するようになったのが、遅くともインドラヴァルマン2世期であることは確かだが、バイヨン期にまで遡ることができるのか今のところ確証がないため、ここではバイヨン期以降としておきたい。いずれにしろこのような混合様式の像はロブリーを中心としたタイ中部やタイ東北部において隆盛し、地方的特徴をさらに加えた多くの作例に結実する。 本項で検討したラオスの仏像はバンテアイクデイ出土の廃仏と同様の特徴を備えながら、それ以外の要素として11世紀以前の像からの形式借用や地方的な表現が混在している例がほとんどで、多くを13世紀後半から14世紀前半の像とした。 ラオスのクメール系の仏像の多くがナーガ仏である点もバンテアイクデイ出土の廃仏やロブリーでの傾向と一致する。ナーガ仏が人気を博したわけはバイヨン期前後の流行を継承したためだと考

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