lao_20th
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挿図9 説法印立像 ナーライ国立博物館所蔵8463現在バンコクにあるエメラルド仏やシヒン仏もインドやスリランカから請来した由来伝承を持つが、その形式はどちらもインドやスリランカに遡ることはできない。伝承と実像との矛盾は、仏像の権威付けを目的として仏教の聖地を引き合いに出すことから起こり、あるいは本当にスリランカ等から請来されたが、伝世の途上で破損あるいは紛失したため、その時代の形式で修理あるいは新たに制作したためだとスパトラディス・ディサクンは述べている(SupattrdisDiskul(1995)Silapa nai prateet Thai(タイ国の美術)(inThai),p.27.)とはない。つまりこの伝承の作者が見たのはスリランカ仏ではなくこれらの仏像のどちらかか、あるいは類似した仏像だということになる63 両手を挙げて説法印を結ぶ像がドヴァーラヴァティー美術で採用され11世紀の後半にはタイのプラサート・ピマーイなどのクメール美術で例が見られるようになる。説法印が施無畏印に入れ替わるのは、バイヨン期以降と考えられ、ウートーン第1様式で例が見られる。 8a像は宝冠仏だが、新年の祝いで市内を巡回する時の写真を見ると冠は着脱可能だとわかる。口元には微笑みをたたえているが、眉毛の形状は弧を描きクメール美術では一般的でない。また肩幅が狭く、体幅も抑揚に欠け、親指を除く4本の指の長さが揃っていることからも時代が下り、17世紀から18世紀の像だと考えられる。 8b像は現在所在不明となっている。口元には微笑をたたえていて、唇は三日月状になっている。肩幅は広いが胸の肉付きは薄く、腰は細く大きな臀部を持ち、腹部はいくぶん突き出している。これらの特徴はバイヨン期の作例に祖型を見出すことができる。頭上に円錐形の宝冠を頂くことや通肩の袈裟は襞がない透けた表現で腰回りや両腿が浮き出ているのは、ウートーン第1様式像と共通する特徴である(挿図9)。 カンボジアでもバイヨン期以降のいくつかの石像はほぞで継いだ腕や弧を描いた眉などバイヨン期像とは異なった技法や表現の特徴を持つことから、13世紀後半から14世紀に下ると考えられる。ではパバーン仏は伝承通りカンボジアからもたらされたものだろうか。 当時の上座部仏教の中心地がロブリーやスコータイといったタイ諸都市であり、そうした都市を中心に周辺地域との仏教交流が盛んだったことはウートーン第1様式像がタイ中部を中心に広がり、スコータイでも出土していることからも明らかである。さらにタイでは青銅仏が盛んになっていく点も見逃せない。またロブリーからはペチャブーン県を抜けルーイ県のプラタート・シーソンラックでメコン川に至る交易路が存在している。 以上交流史的、地理的条件や同様の作例の多さと美術様式の周辺地域への広がりから見て、挿図8b像は13世紀後半から14世紀中頃ロブリーを中心とした地域で造られた可能性が高い。この年代推定はラオス年代記のファーグム王即位前の100年間にあたる。またパバーン仏がルアンパバーンにもたらされたのは1489年のことだが、現在王宮に祀られている像はパバーン仏のルアンパバーン到着後、つまり15世紀末以降に造られたものだと考えられる。信仰を集める仏像の模造が行われてきたのはパバーン仏でも同様で、多くの模造が存在する。いずれにしろパバーン仏にはラオスで最も古い仏像としての地位が与えられ、スリランカやカンボジア伝来という話がパバーン仏信仰のために作られたのではなかろうか。

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