lao_20th
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挿図8a. パバーン仏写真 ルアンパバーン王宮博物館      (出典:APSウェブサイト https://www.aps.  8b. パバーン仏写真(出典:Sagwan Rodbun83co.th/asia_img/from/87.jpg)(2002)Phuttasin Lao,表紙)3.3 ルアンパバーンのクメール系仏像 古都ルアンパバーンはラオス北部の中心都市で、町の西側をメコン川が南に流れ、メコン川を遡ると旧ラーンナー国のチェンコーンさらにチェンセーンといった町に通じ、川を下るとヴィエンチャンに至る。南方からウィヤンカムを経由して流れてきたナーム・カーン川はルアンパバーンでメコン川と合流するが、町の中心部はこの2本の川に囲まれた地域で現在でも王宮や多くの寺院が残っている。町から北へ約30キロのパークウーではナーム・ウー川がメコン川に合流する。この川はラオス最北部に発し、その地は中国雲南省のタイ族自治区シプソンパンナーやベトナム北部のタイ族居住地域シプソンチュータイと通じている。これらの河川によって、ルアンパバーンはタイ諸族の交差する地点に築かれた交通の要所であったことがうかがえる。 ラオス年代記では、ルアンパバーンはラーンサーン朝創設当初シエントーン(黄金の都)と呼ばれていたとされる。この旧名はワット・シエントーンという古刹名に残っているが、いつ頃この名前が使われ始めたのか定かではない。上述のようにスコータイの碑文などに見える「チャワー」という町がルアンパバーンの前身とされている。ヴィエンチャンへの遷都の後シエントーンはルアンパバーン(パバーン仏の王都)と改称されたが、その後も王朝の故郷として、また仏教の中心地として町は存続した。18世紀初頭に王朝が三国に分裂すると、この町はそのうちの一つルアンパバーン国の都として再び政治の中心地となった。現在はラオスの首都ヴィエンチャンに次ぐ第二の都市で、1995年に旧市街がユネスコ世界文化遺産に登録された。 ルアンパバーンでは歴史を通して多くの寺院が建立され、現在まで1000体を超える仏像が残されている。これらの仏像にはタイに成立した各王朝の仏像からの強い影響が認められ、仏教交流の証拠となっている。一方クメール美術の形式を受け継ぐ仏像も散見され、身延山大学作成の「ルアンパバーン世界遺産地区寺院蔵仏像データベース」および王宮博物館の所蔵品写真資料から研究対象22体をリストアップすることができた。これはルアンパバーンに現存するクメール系の仏像ほぼすべてを網羅していると言ってよい。このうち王宮博物館の収蔵数が最多となっている。22体という数は1000点を数える仏像総数からすると極少数ではあるが、大きな疑問はクメール朝の影響範囲外とされるルアンパバーンにどのような経緯でこのような仏像が伝わったのかという点にある。本項ではこの疑問を追求するために22体の仏像とカンボジアから伝わったとされるパバーン仏を検討したい。ババーン仏 前節ではパバーン仏の由来伝承を取り上げ、その史実性に疑問を投げかけておいた。ここでは写真に見える仏像の特徴を検討し伝承内容との整合性を見ていきたい。 現在ルアンパバーン王宮博物館の仏殿に安置されている像(写真8a)とサゴワン著書の表紙に載る古い写真(写真8b)はどちらもパバーン仏ということだが、両者が異なる仏像であることは一目瞭然である。 ラオス年代記によるとパバーン仏は全高1.18mの青銅立像で、両腕を胸の前に上げ両手で施無畏印を結ぶ姿であり、両像とも記述内容と一致する。一方建立の地とされるスリランカでは右手に施無畏印を結ぶ場合、左手は大衣をたくし上げて裾を握るのが通例で、両手を使って施無畏印を結ぶこ

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