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53SakchiSaisingha(2013)Phra Phutta Rup nai 54SurasakSrisamang(2003)Ruang who lea Ruambotkhwam thang Wichakan Lanchang: Lanna(父の話とラーンチャーン、ラーンナー関連論文集)(inThai),p.3-7.51前掲註3、この論文ではルアンパバーンのいくつかの寺院で行った住職へのインタビューに基づく仏像様式の時代的解釈を載せている。52前掲註1,p.55-58.Prathet Thai(タイの仏像)(inThai),p.446-458.773.1 先行研究1.サゴワン・ロートブンは『ラオス仏教美術』で、ラオスで見つかっているクメール美術にも言及している52。まずヴィエンチャンから南へ20キロのサーイフォンで見つかったサンスクリット語碑文のLuisFinotによる翻訳から、サーイフォンで施療院(アローカヤサーラー)が建設され、医師2名、薬剤師2名、看護婦2名が派遣されたことを紹介している。さらに同地点から見つかった仏像について、プノンペン国立博物館像、バンコク国立博物館像、スコータイのワット・プラパーイルワン像(頭部欠落)の各ジャヤヴァルマン7世像と比較し、サーイフォン像は地方職人ではなくカンボジア人の手によるものだと推測している。またヴィエンチャン近郊のワンチャーン洞窟の2体の浮き彫り大仏について、タイのファーデートソンヤーン像やカオプッタバート・ブアボック像と比較し、ゆるい脚組みの半跏趺坐を共通点に挙げつつ結印法や顔つきにおける地方的特徴を指摘し、壁面に刻まれた「928」という数字をシャカ紀元とし、西暦1006年の建立とする。ラオスへの仏教伝播を裏付ける証拠が、ラオスに現存するクメール様式像であるとされ、それらの仏像もファーグム王時代に持ち込まれたものだというのがラオスで一般に語られる説である51。ではファーグム王と同時代のカンボジアやタイでの像とはどのような共通点や相違点があるのだろうか。本節ではパバーン仏をはじめラオスで見つかっているクメール仏とされる仏像の像容を検討し、これらの仏像が制作された場所や時期の推定を試みるとともに、カンボジアやタイといった周辺地域との交流史の中にどのように位置づけられるのか検討したい。  この著書の表紙にはパバーン仏の古い写真が掲載されており、現存像と比較する上でたいへん興味深い。2.サクチャイ・サーイシン『タイの仏像』は主にタイの仏像を題材とした仏教美術研究をまとめた著作で、ラオスの仏像についても一章を割いている53。サーイフォン像についてはすでに地方化した特徴を示すことを指摘しつつ、12世紀中頃~13世紀中頃の作例とするジトーの説を支持している。またヴィエンチャンのホープラケーオ所蔵の石板に刻まれた浮彫り像についても、バイヨン期の大乗仏教との関連と地方化した特徴を指摘している。一方ヴィエンチャンのシーサケート寺院蔵ナーガ仏、ルアンパバーンのタートルアン寺院蔵宝冠ナーガ仏、禅定印仏がそれぞれバイヨン期、アンコールワット期、ドヴァーラヴァティー美術の影響を示し、制作年代をいずれもバイヨン期からバイヨン期直後の12世紀中~13世紀中としている。さらに現在ルアンパバーン王宮博物館に安置されているパバーン仏とサゴワン著書の表紙に載る写真が別像であり、後世「パバーン仏」の模造が多数造られてきたことから、現王宮博物館像は後世の作であるとし、一方で現在所在のわかっていないサゴワン著書の表紙の方はバイヨン様式あるいはウートーン第1様式に位置づけている。さらにファーグム王時代のカンボジア王はヒンドゥー教信仰に戻っており、当時仏教の中心はロブリーであったとするスラサック・シーサムアーンの見解54に基づき、パバーン仏はロブリーから伝わったのではないかとしている。またワンチャーン洞窟像について、像容から見て「928」の刻文を小暦とし、西暦1566年と解釈している。  当時のカンボジア王のヒンドゥー教信仰に関する見解は第2節で見たクメール年代記とはずれがあるが、ロブリーが仏教の中心地であったとする点は現存する数多くの仏像や仏教建築からも妥当性が高い。

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