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7542前掲註35,p.19.43Rattanapanyathera(1975)Chinakalamalipakorn(ジナカーラマーリー)(inThai),p.121.44KanakamakanFaiPramuanEkasanleajotmaihet(2002)PhongsawadanLuangPrabang(ルアンパバーン年代記).inPrachum Phongsawadan Chabab Kanchanapisek(年代記集成祝賀版),Vol.9(inThai),p.104,106-107,114-115.45KromSilapakon(1992)Pra Racha Phongsawadan Chabab Pra Racha Hattaleka, Vol.2(王朝年代記御親筆本)(inThai),p.221-222;KanakamakanFaiPramuanEkasanleajotmaihet(2002)TamnanMuangChampasak:MomOmuruangwhichit(ムアン・ジャンパーサック伝承).inPrachum Phongsawadan Chabab Kanchanapisek(年代記集成祝賀版),Vol.9,(inThai),p.233;PhongsawadanMuangMonthonIsan(ムアン・モントンイサーン年代記)inPrachum Phongsawadan Chabab Kanchanapisek(年代記集成祝賀版),Vol.9(inThai),p.304.2.5 パバーン仏のその後 パバーン仏のその後については、比較的多くのあり、ナーンの伝承と符合している上、ファーグム王がルアンパバーンを追放されナーンに逃れたこととも相容れる。またラームカムヘーン王碑文には王が治めた人々として「チャーオ・ウー、チャーオ・コーン」という言葉が出ている42。「チャーオ」とは「人」の意だが、「ウー」とはルアンパバーン市内からメコン川を北へ約15キロ遡った地点でナームウー川がメコン川と合流する地点つまりパークウーのことである。この川は雲南省のシプソンパンナータイ族自治区やベトナム北部のタイ系民族が多く住む地区とも近接するラオス最北端に発し、古くからタイ系諸民族の交易の要所であったと言われている。一方「コーン」とはメコン川をさらに遡った現在のチェンラーイ県チェンコーン郡に当たる。「ウー」と「コーン」が一括で言及されている点は両地域が緊密な関係を持っていたことを示している。 ナーンとスコータイとの交流に関する史料は少なくない。ナーンにはスコータイから仏教が伝わり、スコータイ美術の影響下で仏教美術が開花している。スコータイ仏を基調とした仏像も何体か現存しており、ルアンパバーンに見られるスコータイ仏形式の仏像の流行がナーンから流入したものかという点も興味深い。ナーンは1448年ラーンナー朝に吸収されてしまう43。 以上前項と本項でクメール年代記・ラオス年代記・タイの年代記を見てきたが、ラオスとカンボジアの関係として語られる「仏教伝来」「パバーン仏の勧請」は、ラオス年代記以外の史料から裏付けることができない。そればかりか両者の関係を物語る記事はほぼない。一方ルアンパバーンとスコータイやナーンとの関係は様々な史料で確認できた。また仏像を中心とした仏教美術を見てもタイ側の影響がルアンパバーンに流入していることなど、ルアンパバーンとタイとの関係は多くの証拠に支えられている。史料からたどることができる。ファーグム王時代以来ウィエンカムに安置されていたパバーン仏は、1440年になりラーンサーンの都シエントーン(ルアンパバーン)に請来しようとしたが、チェンカーンまで来た時パバーン仏を載せた船が転覆し仏像は水没してしまう。ところがパバーン仏はいつのまにかウィエンカムの仏堂に戻っていたという奇蹟を演じる。シエントーンに請来できたのはようやく1489年になってからのことで、初めはワット・チエンクラーンに、その後ワット・マノーロムに安置した。1517年にはワット・ウィスンに移され、1564年のヴィエンチャン遷都に際しても同寺に据え置かれた。シエントーンという町の名がこの仏像名を冠してルアンパバーンと改称されたのはこの時である。1699年の少し前にラーンサーン王朝はルアンパバーン国とヴィエンチャン国に分裂したが、その争乱の中ヴィエンチャンから派遣されていたルアンパバーンの太守はパバーン仏を伴ってヴィエンチャンに逃走したため44、以降ヴィエンチャンに置かれることになる。 アユタヤ朝滅亡後、バンコクに興ったトンブリー朝は1778年から翌年にかけてヴィエンチャンを攻め、戦利品としてエメラルド仏とともにパバーン仏を持ち去った45。3年後ラーマ1世がトンブリーからチャオプラヤー川の対岸に新王朝(チャクリー朝)を創設すると、人質となっていたナンタセーン王子をラオスに帰らせ王としたが、王子はこの時パバーン仏をヴィエンチャンに持ち帰る許しを

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