7012KanakamakansupkhonPrawathisatThaikiyaukapJinnaiekasanJin(1980)Khwam Sampan Thang kan Thut rawang Thai-Jin P.S.1825-2395(タイ中国交1282-1852)(inThai),p.2.13MadeleineGiteau(2000)Histoire dʼAngkor(inthai),p.125.14前掲註9,p.252.15元の史料にある「暹」をスコーイ朝と比定し元朝への朝貢の回数をもってスコータイ朝がタイ族のリーダーだと認識されていた。『真臘風土記』の訳者もこの見解にしたがっているが、「暹」という国が1351年に「羅斛(ラウォー)」と統合され「暹羅」つまりアユタヤ王朝が建設されたと見ると、ラウォーと連合してアユタヤ朝を建設したのはスパンブリーであって、「暹」はスコータイでなくスパンブリーを中心としたタイ中部の勢力とみる説が有力である(SrisakWalipodm(1992)SayamPrathet:Pumlang khong Prathet Thai tangtae yukdukdamban conthung samai krungsriayuttaya rachaanajak sayam(サイアム:黎明期からアユタヤ朝までの背景))。「暹」にあたる「シヤン」という語はアンコーワットの回廊に描かれたスールヤヴァルマン2世の行軍場面の浮彫で「シヤン軍」が登場することから、アンコールワット建立当時まだ創建されていないスコータイ朝を指す語でなかったことは明白である。週達観が渡航した1296年当時の話としての記述に「暹」でなく「暹羅」とあるのは、アユタヤ朝成立の1351年より前に「暹羅」の語が使用されていたことになり、アユタヤ朝成立以前からタイ中部に後にアユタヤ朝成立につながる勢力が形成されていたことを裏付けるのではないか。16周達観(1989)『真臘風土記』21,69,75頁より抜粋ヴァーラヴァティー美術を基調としながら新たな展開を見せる建築や仏像が造られていた。ラウォーは中国資料で「羅斛」として知られ1289年に入貢しているとから独立した国だったとみなされている12。 カンボジアに話を戻すと、1295年の碑文ではそのころジャヤヴァルマン8世が老齢となり威光が衰えたため国内が分裂状態に陥ったことから、娘婿のシュリンドラヴァルマン[あるいはインドラヴァルマン3世]に1295年[あるいは1296年]に譲位したとされる13。シュリンドラヴァルマンは1307年[あるいは1308年]まで王位にあり、1304年のサンスクリット語碑文からはヒンドゥー教の信仰がうかがわれる。一方で最古のパーリ語碑文であるワット・コクポー(KokSuayChek)寺院碑文(1309年)からは1308年に王が退位したことが知られるほか、王が大僧正に所領として村を与えたことや、在家信者達がこの寺院に堂・塔を建立し、王はこれを維持する役割を四箇村に与えたと記されており14、王朝の伝統であるヒンドゥー教を尊重しつつ上座部仏教を保護していたことが見て取れる。前王の廃仏により大乗仏教が衰退した後上座部仏教の地位が上がり、王家にも信仰が広まっていたことが王の政策にも現れている点で重要な史料である。2.2.2 『真臘風土記』の記述から 元朝からカンボジアに派遣された使節は1296年から約1年間アンコール都城に滞在した。この使節に加わっていた周達観が著した『真臘風土記』には、シュリンドラヴァルマン治世中のアンコール都城の様子が書かれている。その中にラオスに関する記事はないが、カンボジアとシャム(現タイの中部)との関係について書かれた箇所があるので抜き出してみたい。 �このころカンボジアでは暹羅15から輸入された布が出回っている�暹人が移住してきて、養蚕を持ち込み絹織物を織って着ているが、カンボジアにはこの種の技術がなく、布が破れると暹人に繕ってもらう�このころ暹人との交戦のため、村は無人化し荒廃してしまった16� 「無人化」とはシャム勢力がカンボジアに侵入し村人を捕囚して帰った結果だと考えられる一方で、暹人が移り住んでいるというのは、反対にシャムから捕囚してきた人たちの村があったのかもしれない。この頃シャム勢力との力関係は拮抗し、時に劣勢に立たされることもあったとすると、アユタヤ朝年代記にあるアンコールへの遠征以前に、つまりアユタヤ朝創建以前に両者の間に戦争があったことになり、タイ側の史料を欠いていることからも興味深い。 『真臘風土記』には上座部仏教に関する記事も見られる。 僧は髪を剃り、黄色の大衣を偏袒右肩にま
元のページ ../index.html#72